20代ラスト6ヶ月を生き抜くブログ

あなたは列車を待っている

保つということ(5/183)

今朝は6時に起きてランニング。けれど、お弁当の具材をまとめて作らなくてはならない都合上、数分程度で切り上げました。汗をかかない程度のランニングにどれほど意味があるのかなと思いましたが、多少は頭は活性化されたようです。

 

コンディションを保つ、ということ

気分のムラなく日々を送る、というのがわたしはとても苦手でした。調子の良いときに壮大な目標を立て、平時にそれを反故にする、それの繰り返しです。わかっているのになぜ繰り返すのか、という話ですが、目標というのは調子のよいときしか思いつかないし、けれど目標に向けて遂行するためには調子の浮き沈みに関係なくコツコツやらなければならないためです。

 

約束破りの快感

ここでSMの話をしますが、SMの快感は約束破りの快感によるという話を聞いたことがあります。虐げてはならない(S側)、情けない姿を見せてはならない(M側)、そういったお約束を自ら反故にすることに、背徳の快感を感じるそうです。私が自分への約束ごとを破りたがるのも、もしかしたらそれが気持ちがいいことなのかもしれません。中長期的な快感よりも、目の前の快感に囚われる、このままでは人間ではなくただのけもの。

 

そんなわけで

小さな目標をコツコツと、ということしかないのかもしれませんが。どういうことが出来るのは、まだ結論は出ません。

 

 

ムラっけを無くすには?(4/183)

昨日から今日にかけては散々なメンタルコンディションだった。

行動表を立て、それに向けて行動しようと思ったのはよかったが、同居人が帰ってくるのが遅かった。ご飯も用意していたのに。それで計算が狂ったと感じられ、急に、もう何もかもが嫌になってしまった。完璧主義。実現不可能な完璧主義。それ以外の何物でもない。

今朝は一週間ぶりに朝の運動をサボった。そのせいか半日頭をぼーっとさせて過ごす。14時頃退勤。むしゃくしゃして昼食を食べ過ぎ、銀行で新札を降ろすというタスクをこなすもののその後寝て過ごしてしまった。

 

実現不可能な完璧主義を自ら掲げ、それに挫折して落ち込み心を病ませているのだからわけはない。自信をつける一番の良い方法が、自分に対する約束事をひとつずつ守っていくことだ。

 

この半年を、十年後の自分のために使うと決めた。同居人に十年後のわたしにどうなっていて欲しいか尋ねると「(できたら)いつもニコニコいてほしい」「気分のムラっけを減らして、落ち着いて日常を過ごして欲しい」とのことだった。これは、おそらく、同居人もそうとう参っているのではないだろうか? これはよくない。

 

あまり考え過ぎない、陽気な中年を目指すべきなのかもしれない。メンタルを強くするには? そもそも強いメンタルとは? 他人を妬まず、心穏やかに、日々チャレンジ続けられるようになりたいが、それはどうやればいいのだ?

ともかく、朝のランニングは明日からもやりたい。千里の道もまず一歩からだ。

行動票を立てる (2/183)

今日やってみたのは、帰宅後の行動表を立てる、というものである。

 

わたしはとにかく、いつもアタマがとっちらかっている。思考の多動性がひどく、そのうえ、それらに優先順位がつけられないのである。以前GTDというタスク管理術をやろうとしたことがあったが、タスクやプロジェクトが無限に湧き出てしまうので挫折したという経緯がある。

自分なりに考えたこれへの対処法が、行動表である。とにかく流れを書き出して、それを上から順にそのままやるのだ。もちろんタイマーも仕掛ける。献立は週単位でまとめて考える。これも作ってみた。

 

今日はこんな感じで張り切ったので、料理をしたあと疲れて二時間ほど寝込んでしまった。たくさん家事をしたが、同棲相手は残業中に体調をくずし、今晩は帰らないという。

なんだかなあと思うが、しばらくは続けてみよう。

少しずつ、少しずつだ。

 

二十代最後の半年が始まる (1/183)

残念な二十九年間だった。

でもこの歪な二十九年間を、きっとわたしは気に入っていた。この醜くも愛おしい二十代はもう間もなく消えていく。そこに客観的な価値などないけれど、これはわたしだけのものだから、だから感傷的にもなってしまう。だから、残る半年を記録に残したいと思ったのだ。

 

つい昨日のことだが、ライフイベント表というのを作ったのだ。ここにきてようやく、わたしは65歳まで生きる決心がついたようなのである。遅い、遅すぎる。いくらなんでも遅い。でもしかたがない、生きることにこれまで本当に不真面目だったのだ。けれど人間とはさすがに成長もするらしい。自分が、自分の人生や伴侶の人生について、こんなに真面目に考えることができるとは思わなかった。

この半年は、十年後の自分のために捧げようと思う。つまり、39歳の自分である。だいたいこんなところだ。

・サイエンスイラストレーターとしての仕事が、名刺を作ってもさまになる程度の形になっていること。つまり、プラットフォームがあり、サービスの原型があり、マネタイズできており、月一回以上仕事があること。副業でもいい、歩き続けていること。

・生活を日々改善し続けられていること。その歩みが止まっていないこと。

・幸せが増えていること。幸せは固定値と変動値とで表現しうる。そのうち、固定値……つまり、資産や業績、資格、能力などが記録されており、増えていること。

・他人をリスペクトし、陽気でよく笑う、たのしいおばさんであること。

今のところは、こんなふうに考えている。

やるぞ。

 

 

 

 

何かと憂鬱だ

今やってる研究内容及び研究方針(具体的に言えば上司の思考)について本音を言えば悪口は100個は思い浮かぶけど良い点は殆ど挙げられない。くだらないしょうもない研究だと思っている。砂上の上の仮説を盲目的に信じ込み、その『仮説』にそぐわない結果が出たら「それは実験設計が誤っているせいだ」としてまた別の実験を繰り返す。その『仮説』に沿った『正しい結果』が得られるまで。これは科学ではないだろう。私が今行っている仕事は、サイエンスではなく、上司の理想の具象化実験である。
まあ、これは就職する前から分かっていたことなのだ。
私は職業研究者じゃなくて所詮雇われパートの技術補佐員の身なんだから、嫌いなら嫌いで仕事と割り切ってやるだけのことをやればいいと思ってやってきた。でも、やるだけのことをやったところで、所詮雇われパートの非正規雇用(任期付き)なんだよなあと思うと居た堪れない。貧乏だけど自分の好きなことができているから幸せなんだとこれまで言い聞かせてきたが次第に自分の好きなことからはかけ離れていきつまらないしがらみと上司の顔色を伺う生活が残された。

自分が恵まれているという自覚はあるはずだ――だからこれは見当はずれの贅沢な悩みなんだろう。

サイエンスイラストレーションに挑戦してみたいからこそ今の職場を選んだ、という動機が初期のモチベーションだったようにうっすらと記憶しているが霧の向こうの建物を見るかのようにぼんやりとして不確かだ。
最近は絵を描くのが嫌で嫌でたまらないし実際ほとんど手が遠のいている。創作意欲に溢れた他人や自分の過去の愚作(やそれに満足していた過去の自分)に殆ど憎悪すら覚える。そんな自分が大嫌いだ。
「私はもっと善良で向上心のある人間だったのではないか」
これはまた随分と楽観的な思考であるが、気持ちが悪いことに数年前までは私は私をもう少し肯定的に捉えることができていた。卑屈なのは昔からそうだが、その卑屈さは自分への期待や自信の裏返しだったように思える。今はその期待や自信さえ気持ちが悪い。自意識過剰な自分が気持ちが悪い。気持ちが悪い。死にたい。